ニコ動専用端末発売!(を希望)

 

なんとなく、思いついたので、書いてみる。

人気エントリーのコメント欄にも書き込んだネタ/ http://d.hatena.ne.jp/TM2501/20120413/1334310796

 

私が、毎週チェックするものは、ほとんどないが、毎週毎週待ち遠しいものが一つある。

 

ニコニコ動画の「週刊vocaloidランキング」だ。

 

私は、中年のおっさんだが、このランキングには心がときめく。我ながらキモい。

 

このランキングを一つの指標として、いわゆるボカロ音楽のPV探しあるくのが、楽しみである。

 

ボーカロイドの音楽の魅力を、ここで私が語る資格があるとは思わないが、しかしながら、音楽のランキング番組が待ち遠しいなどという状況は、中学生の時以来のことである。

 

しかし、通勤電車の中で、iPhoneを使って観ると、うまくつながらなかったりして、イライラする。

 

私が熱望してやまないのは、ニコ動専用端末である。

 

これを買えば、ニコ動が観れる。それだけのものだ。(欲を言えば、YouTubeとかも観れるといい)

 

実をいえば、私はTVを観ていない。そもそもテレビがないのだ。

 

なので、観ている動画は、DVDを買ったり借りたりしたものか、YouTubeとかニコ動とかばかりだ。しかも、それで満ち足りている。だから、スイッチ一つで、ニコ動が観られるようにしてもらえるととてもいい。

 

どうせ端末の寿命は2、3年だろうから、買ったらプレミアム会員扱いにしてほしい。録画的に本体に数時間保存して、電波のないところでも観られるようにしてほしい。キーワードを登録したら、検索結果を、自動的に保存したり、連続再生したりしてほしい。これで、1万円代なら即買う。2万円でも、検討してでも結局買う。私にとってニコ動はなくてはならないものだし、毎日観たいからだ。十代の視聴者だって2万円ぐらいなら出すだろう。ケータイやスマホで観るより、快適であればいい。特に観たいときにすぐ観れることが大事。

 

プラス、アップルみたいにシャレたデザインで、持っていること自体が自慢できるようなものなら、大ヒットだろう。

 

さあ、どこが作るか?

 

 

 

 

 

 

タヌキオヤジに乾杯

 

原発の再稼働でもめていることが、私のツイッターのタイムラインで大騒ぎになっていた。

 

正直言って、私は再稼働阻止についてはあまり感心がない。一生懸命やっている人には申し訳ないけれど、敵を設定し、目標を分かりやすい「停止」に求める在り方を、ひねくれ者の私は、心の底から賛同する気になれない。

 

もちろん、原発が再稼働するというようなことを、望んではいない。しかし、私の推測する所、日本人のほとんどが望んでいないと思う。口では「再稼働しろ」と言っていても。

 

私は、オヤジである。つまり中年のおっさんである。中年のおっさんは、狸オヤジになることが至上命題であると、私は考えている。したがって、若者はともかく、中年のおっさんを見て、その人の評価軸は、狸度が高いか低いかである。

 

おっさんというのは、かっこいいという価値観を否定しなくてはならない、否定した上のかっこよさを求めるべきである。禿げていることや、太っていること、汗臭いこと、汚らしいこと、笑い方がいやらしいとか、酒ばかりのんでいるとかそういうことを、肯定する。つまりかっこ悪い存在であること認め受け入れなければならない。

 

数年前に流行った「ちょいワルオヤジ」などというものは、往生際が悪すぎて失笑してしまう。

 

中年のおっさんはかっこ悪いのだ。そして、純粋でもない。

 

あなたがおっさんやおばさんならば、当たり前のことだが、この世の中が純粋なままで、うまく動くことはありえない。かっこつけただけで、なんとかなったりしない。時には、口汚く言葉、ずる賢く振る舞ったり、媚び諂ったり、欲望を丸出しにしたりしながら、裏では舌を出す的なことが必要である。

 

狸とはそういうことだ。

 

狸おやじであるかどうかについて、私は枝野経産大臣を高く評価している。

 

別に体型がとか、顔が狸に似ているからではない。

 

彼が素晴らしいのは、「放射能は、ただちに健康に影響はありません」といいながらも、フルアーマーと揶揄される完全防備の格好をして、福島にいったことだ。

 

こんなに人を馬鹿にしたことはないだろう。しかし、彼はあえてやっているのだ。

 

再稼働もそうだ。彼は「脱原発」と言ったそうだ。政府は原発をなくす方向だと。

 

しかし、再稼働を検討しているのだ。

 

政府の立場に立てばわかる。原発はもう無理であることは明白である。普通に知識があれば、福島第一原発から数十キロの国土は失われたと考えていいだろう。廃炉にするにしても、果てしない時間とコストと健康被害が予想される。馬鹿でも分かる話だ。

 

しかし、そこで政府がはっきり「原発を止める」と言えるだろうか?(←反語)

 

我々の社会はどっぷりと原発という巨大な虚像を核としたお金の流れを作り出してきた。大量の税金がそこにつぎ込まれ、グルグルと経済をまわしてきた。

 

いま、原発を止めることはできても、このお金の循環をいきなり止めることなど出来るわけがない。やったら大恐慌だろう。

 

だから、政府は「再稼働するかのようなフリ」をし続けているのだし、大量の人々が、それを信じているように発言したり、行動したりしているのだ。よく見ればそのほとんどは、中年の不細工なおっさんである。狸なのだよ。

 

原発を止めるというのは、心臓に突き刺さった槍を抜くようなものだ。抜かないままでいたら、やがて死んでしまう。しかし、下手に抜いたら即死してしまう。抜かないままにしておけば、とりあえずいまのところはしのげるけれど、いつまた更なるヤバいことになるかもわからない。

 

さて。

 

優れた狸オヤジをめざす諸君。注目すべきは、原発が廃止されるかどうかとか、「やる/やらない」と「言った/言わない」ではない。

 

どんなプロセスを持っていて、心臓に突き刺さった槍を抜くかだ。

 

英雄がいれば、即座に抜いていただろうけど。

そんな英雄はいない。

 

いるのは、放射能にまみれた狸ばかりなのだ。

 

 

受動的な行列

 

宝くじ売場に行列ができている。
 
あわよくば、他人が宝くじを買った総額から、宝くじの運営やら広告やら、宝くじ売場のおじさんおばさん(お兄さんお姉さん)の給料を払ったお金などなどを引いたお金の何十分の一かをてにいれられないかという願いをこめて、番号の印刷された紙切れを買う。
 
運命は、サイコロだか、電気のくるくる回る弓矢のような装置、いや、ま、ようするにランダムだというコンピュータによって生成される数列にしたがって、転がる。
 
転がっていってほしいと願う。その受動的な人生をいきている。
 
もちろん、人生は受動的なものだ。
 
私は、性別も年齢も国籍も体格も性格も血液型も髪の毛の色も親も兄弟も、主体的に選んで生まれてきたわけではない。
 
気がつけば、いました。与えられていたものは、与えられていました。与えられていないものは与えられていませんでした。
 
そんなことで、よくも主体的に、いきることができるものだ。すばらしいじゃないか。
 
ちなみに、リベットという人のいっていることを大ざっぱにいうと、「人間は自分が決定している」というふうに思いこんでいるそうだ。(大ざっぱすぎて間違っているかもしれないけど)
 
数十ミリ秒という世界で、私の体は、私ではないナニモノカによって、「ああしよう」と決定し、運動する。運動することを私が決めたわけではないが、何だから知らないうちに、私が「ああしよう」と思ったから、そう動いたのだと、後で思いこむ。思いこんでも否定されることはないので、それは真実となる。
 
悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ、とウイリアム・ジェイムスだったかが100年ぐらい前に言ったの同じことだ。
 
だから、宝くじを買うために行列を作っている人々は、宝くじがほしいから並んでいるのではなく、並んでいるから宝くじがほしいのだ。ということは、運を天に任すという受動的な人生を、受動的に選択しているのだといえる。
 
たしかに、浮き輪につかまって波に揺られているのは楽しい。空気が抜けたらおぼれて死んでしまうとしても。
 
消費税を上げると首相はいう。約束とは違うが、約束を破るために政治生命をかけるという。約束破るんだから、生命なんか最初からないだろうと思う。
 
税というのは、強制的に買わされる宝くじのようだ。運が良ければ、国や自治体や、あるいはそこから流れてきたお金でもうけることができる。運が悪ければ、もらえない。
労組があって力をもつような企業には有利な世界だ。
 
しかし、考えてほしい。私たちはそもそも受動的な人生を生きている。お金がほしいと思う。贅沢がしたいと思う。スマートフォンがほしいと思う。そんなことは全部、あなたとは違うナニモノカが考えていることだ。
 
ナニモノカのほしがるものは、ナニモノカにまかせて、我々は優雅に生きようではないか。
 
さあ、行列の最高尾に並ぼう。

共に生きる(殺人者とともに)

光市で起きた殺人事件で、犯人に死刑が言い渡された。

ラジオでそれを聞いたとき、死刑判決の理由は、「世論がそれを望んでいるから」だった。

と記憶していたが、ネットで調べてみても見当たらないので、もしかしたら私の勘違いかもしれない。

しかし、それを聞いて、なぜヨーロッパや幾つかの国々で死刑制度は廃止されているのかよくわかったような気がした。

簡単なことだ。我々の政府がナチスだったとしたら、どうだろうか。ということだ。

武田邦彦のブログによれば、http://takedanet.com/2012/03/post_fcbf.html

「昨年の夏に14歳の少年が放射性物質をわずかに含んだ蛍光塗料が塗ってあるキーホルダーを持っていたとして書類送検された」らしい。そして、それとおなじ法律を適用すれば、陸前高田の瓦礫を移動したり所有したりすることは犯罪になるのだという。しかし、もちろん瓦礫については、だれも書類送検されていない。

東京電力が犯罪者かどうかは私にはわからない。けれども、そこの発電所が事故を起こし、人命に関わると考えられる被害がでたことは間違いがない。警察は捜査しているのだろうか。少なくも、捜査していますという報道はない。

法律を遵守することに鈍感な国があり、そこに死刑制度がある。いい加減な理由で死刑が確定される可能性がそこにはある。

その国の政府がナチスだったとしたら、どうだろうか。ということだ。

例えば、国に批判的な文章を書いたとというようなことを起点とした様々な連鎖の末に、満員電車で痴漢をしたという容疑で逮捕される。私は見ず知らずの女性に痴漢的行為を行いたいと思ったことは一度もないが(本当です)、それでも私が痴漢で逮捕されたといったら周囲の人は、「やっぱりねやりそうな顔してるもんね」とかいいそうである。そうしてなんやかんやの幸か不幸か因果関係の連鎖の末、

カフカのように、ふと朝、目が覚めてみれば、死刑を宣告されていたりするわけだ。

ブラボー! 意外とそれもいいかもね。

というようなことを言ったりできるのは、私に現実味がないからだろう。幸せな国に生まれたものだと、感謝しなくてはならないだろう。

そして、多くの人々がこの幸せな国に生まれたり、生活したりしている。

幸せな国には、たとえば若い母親を殺し、乳児を殺して、

「乳児を押し入れに入れたのは(漫画の登場人物である)ドラえもんに助けてもらおうと思ったから」

「死後に姦淫をしたのは小説『魔界転生』に復活の儀式と書いてあったから」

という理由をいったり、

「一審で無期懲役判決が出た後、被告人は知人に以下のような手紙を出している。検察はこれを少年Aに反省が見られない証拠として裁判所に提出した。

終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君

無期はほぼキマリ、7年そこそこに地上に芽を出す

犬がある日かわいい犬と出会った。・・・そのまま「やっちゃった」・・・これは罪でしょうか」

( http://ja.wikipedia.org/wiki/光市母子殺害事件 )

 

というようなことをする人間も含まれる。

 

私は、わけのわからない理由で死刑判決を受けたいとは思わない。

しかし、私が、もし「人間がある日かわいい人間と出会った。・・・そのまま「やっちゃった」・・・これは罪でしょうか? いやあ、罪なんかじゃないですよね。はははー」っていう意見の持ち主である場合、私はたぶん、わけのわからない理由で刑務所に入れられ死刑判決を受けることになるでしょう。

私と彼との違いはどこにあるのだろう? こんなところ(はてなさんすみません)に、わけのわからないブログなんか書散らしている人間と。

 

自分に接するのと同じように、他人にも接せよ。

ならば、私たちは彼を死刑にすべきではなかった。

しかし、彼と共に生きるというのは、死刑にするよりも果てしなく困難な作業だろう。

つまり隣人が殺人者になってしまうかもしれないこと受け入れるからだ。いやしかし、我々はすばらしい解決法をもってして、実はすでにその困難に打ち勝っている。

鈍感。

私たちは、殺人者と、挨拶をし、握手をし、ゴミ当番を決め、ともに道を清掃し、役割分担をし、迷惑をかけられたら「いいですいいですよ」と笑顔でいい、迷惑をかけたら「ほんとうにすいませんでした」と謝ったりする。

身の危険になどに敏感だったら、すぐに気がふれてしまうに違いない。

我々は鈍感に生きる。すなわち鈍感な我々の政府は鈍感であり、我々の司法は法律に鈍感で、私はその鈍感さの生け贄となって、死刑になるかもしれないが、もちろんそんなことには私も鈍感なので、気楽にブログなどかいて酒を飲んで寝る。

 

 

 

独裁スイッチ

原発の問題を考える。

たとえば放射能の危険性について話す。すると、危険を煽るなという批判がくる。

農薬の危険性や紫外線の危険性や、電磁波の危険性について話しても、そこまでの反応はない。

原発事故が起きる前に、「もし爆発なんかしたら大変なことになりますから」ということを言ったら、白い目で見られたことも多々あった。

原子力ムラというものがあるそうだ。聞けば、政治家、官僚、学者、そして電力、メーカー、広告、マスコミなどなどを含む人々だという。彼らは原発のおかげで、お金を儲けてきたという。たしかに多額のお金がつぎ込まれている。その多くは税金や、払わないわけにはいかない電気料金として、日本人みんなが払っているお金だ。彼らはそういう利権を得るために原発の危険性に目を向けず、あるいは多くの人の目をそむけるようにしてきた。

しかし、そういったところと関係なく仕事をしている人っているのだろうか?

あなたも、わたしも、あるいは福島の人の避難を助けている人もまた、原発でお金を得ているか、原発でお金を得た人からお金を支払ってもらっているか、あるいは、原発でお金を得た人からお金を支払ってもらっている人からお金をもらっている……以下永遠につづく、内に含まれる。

原発を爆発させたのが、誰かのミスだったり、誰かの傲慢だったり、間抜けだったからであったとして、そしてそれが原子力ムラの責任だとして、

とすれば、結局、それは私もあなたもみんなどこかで責任をとらざるを得ないだろう。

直接聞いたわけではないが、首相は国民にも責任があるといったそうだ。なるほど、そのとおりだと思うが、そんなことをいう人間に総理は勤まらないと思う。

総理大臣ならば、国民を代表して、私に責任がある、というべきだろう。

けれど、そんなことを総理大臣とはいえ他人に要求するならば、私も、また、同じように愚かな発言者となってしまうだろう。

だから、私は黙って、独裁スイッチを押す。

原発関係からお金をもらっていた人々は消えていく。

愚かな発言や行動をする人も消えていく。

他人に責任をなすり付ける人も、中傷したり馬鹿にしたりする人も、他人には安全といいながら自分だけは助かろうとする人も、ビクビク怯えてなにもせず、また自分に危害がおよびそうなら正しいことでも排除してく人も、ただ恐い恐いという人も、身近な人を攻撃して満足している人も、関係ない善人のフリをしている人も……みんなみんな消えていく。

私は、ドラえもんの「独裁スイッチ」を読んだとき、なんて素晴らしい話なんだろうと思った。それは三十年以上時を経た今でも変わらない。

しかし、ふと思い出してみる。「みんな消えてしまえ」と叫んで、スイッチを押してしまい、誰もいなくなったのび太の姿。彼は、最終的にはひとりぼっちの寂しさに泣き、自分のしてしまった過ちに気がつく。他人は煩わしいが、誰もいない世界はもっと辛い、と。

ほんとうに辛いのだろうか、と私は思う。

スイッチを押して、誰もいない世界。

他人に責任をなすり付ける人も、中傷したり馬鹿にしたりする人も、他人には安全といいながら自分だけは助かろうとする人も、ビクビク怯えてなにもせず、また自分に危害がおよびそうなら正しいことでも排除してく人も、ただ恐い恐いという人も、身近な人を攻撃して満足している人も、関係ない善人のフリをしている人も……みんなみんないない世界。

その世界を想像して安堵する私がいる。ふっと落ち着く私がいる。ああ、他人などいなければいいのに。